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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(3) - ここから本番

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3. 鎌倉幕府滅亡直後に後醍醐天皇の息子、恒性皇子を殺害

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した元弘の変で失脚した後醍醐天皇の息子、恒性皇子は高岡で軟禁されていました。
後醍醐天皇は配流されていた隠岐の島から戻り、再び鎌倉幕府に対して攻勢に転じ、1333年の春についに幕府を滅ぼします。
恒性皇子を預かっていた越中の守護名越時有は鎌倉幕府方だったのですが、鎌倉で北条氏が滅ぼされたころ、450km彼方の出来事を知ってか知らずか恒性皇子を殺害してしまいます。
恒性皇子の墓は都の置かれたことのない場所に存在する唯一の皇族の墳墓なのだそうです。勝者の息子を殺害してしまっては高岡は当然歴史から消されてしまいます。タチバナ現象の始まりです。

4. 百姓のもちたる国、一向一揆、浄土真宗門徒による自治

室町時代に入ると土砂の堆積で伏木の港湾機能が低下し、国府が放生津のあたりに移動します。そこにはかなり大きな船を持った商人が存在したという記録が残っているそうで、海上交易は依然盛んだったと見てよさそ うです。
この時代に起きた浄土真宗の北陸進出は高岡の文化に対して大伴家持、前田利長以上に大きな影響を与えています。

金沢と福光の中間あたりに本泉寺というお寺があります。そこには浄土真宗中興の祖である蓮如の叔父がおり、1471年ごろ比叡山延暦寺との対立で京都にいづらくなった蓮如を福井、石川県境の吉崎へ招き入れます。そして、それを機に北陸地方で一気に浄土真宗が広まります。
越中では蓮如により同1471年に建てられた勝興寺善徳寺と、ひと足早く1390年に綽如によって建てられた瑞泉寺の3つの寺院を中心に信者を増やしました。
やがて浄土真宗の門徒は加賀の守護を務める富樫氏の実権を奪い、金沢御坊を中心としてある種の共和制のような政治体制を作り上げます。これは「百姓のもちたる国」とも呼ばれます。ここでいう「百姓」は網野喜彦が解釈したように、狭く農民という意味ではなく、貴族、武士、町人、神官、僧侶以外の普通の人々ととったほうがよさそうです。この政府は商業活動により経済力を高めた百姓つまり豪商、豪農、廻船業者が中心となって運営されていました。

これは朝廷や武士以外の人によって運営された日本で初めての政治体制として、民主主義国家としては大々的に教科書に取り上げられてもおかしくない出来事だといえます。しかし、そうはなっていません。高校で日本史を選択しなかった者は農民がムシロ旗の下、鍬を持って暴れまわっていた ようなイメージしか持てていません。戦国大名を一通りやりつくした感のあるNHK大河ドラマでも完全に無視されています。
これもまた過去の権力はもちろん、現在の政府にとっても好ましくないストーリーとして意図的に消されたとみて違いありません。
幕府から見たら百姓風情がお武家様と対等に渡り合ったなんて話が広まると体制の維持に影響が出てしまいます。現在の政府にしても主権在民を掲げていても、明治政府が作り上げた天皇家の物語から逸脱した歴史は排除したいようです。また、現在も強い力を保っている浄土真宗という宗教を教科書に取り上げるのは生々しすぎる、布教に加担しかねないという意識もあるのかもしれません。
こうしてまた高岡は歴史の片隅に追いやられます。今度は時代にちょっと先んじすぎたようです。

このころに起こった歴史上の出来事としては越後上杉家の侵攻もまた忘れられている出来事のひとつです。部下に褒美を与えるために攻め込んでくるなんて侵略戦争以外の何ものでもありません。侵略された側が恥として消し去ったのでしょうか?。あるいは戦国時代にはよくあることすぎて忘れられているのでしょうか?

続く

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