先日のエントリー で書いた学校祭の座談会について部分的にメモが残っていました。その文書は一太郎Ver.3で書かれているのですが、ジャストシステムが 一太郎ビューア というソフトウェアを無償で配っていて、それを使うことで今でも問題なく見たり印刷したりすることができました。ジャストシステムは地味にすごい。 それを読み返してみると話があちこち飛び回る、取り留めのない座談会が記録されています。 今読み返してみて感じたのは、生徒たちが大人の受け売りの言葉で自虐的に若者を責めていることの痛々しさでした。 それも大体が現在の視点からはいわれのないレッテルに見えます。 時代を下るにしたがって「切れる」だの「ゆとり教育で低学力」だの新たなレッテルが開発されてきましが、それを真に受けて自責する必要のない若者が要らぬ自責を繰り返してきたのだろうなと思うとかわいそうな気持ちにさせられます。 近年、自虐史観に基づいた教育を改めて日本に誇りを持てるようにしようという運動が力を得てきているように見えますが、国だけじゃなく個人の自虐性もなんとかできないものでしょうか。どちらかというとこっちのほうが問題だと思います。 1989年当時の若者がどういう自責をしていたかというと、こんな感じでした。 ・物質的、モノに頼る ・しらけている ・没個性的 ・本を読まない ・情報アクセスへの努力をしない、自分で調べない ・物質的、モノに頼る 後にこの世代はモノを欲しがらない最初の世代となる。今では消費意欲がないと責められる始末。社会人になって何年もギリギリで生活していたらいつの間にか物欲が消えていた。 ・しらけている 確かにしらけるのがクールと見なされていた。克服できればよかったかなと思える項目。個人的な感覚では、世代差というよりも地域差が大きいと思う。世代的には今の50代が一番しらけている気がする。 ・没個性的 比較的生きている時間の短い若者は、大人に比べて個性が分岐しきっていなくて当たり前。自責の必要なし。 ・本を読まない 統計では1990年前後の若者はかなり本を読んだ世代といえるらしい。その後も高止まり傾向で2003年にピークをつけている。参加者が一人も「ノルウェイの森」を読んでいないと馬鹿にされていたが、当時はまだ文庫化もされておらず、ミリオンセラー程度だったと思う。1...