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まないた橋

むかし、むかし、越中の二上山に、気のあらい男の神がおったと。
その男神が、いつもあばれて、田も畑もふみあらしてしまうもんで、村の人たちはこまりはてておった。なんとかして、しずまってもらわねば、どもならん。
そこでそうだんして、村のおもだった者が、男神にたのみにいったんやと。
「そら、おまえらのたのみ、きいてやらんでもない。そのかわりやな、二上山の東の萩野というところにあるまないた橋の上に、まい月一日と八日と十三日と二十三日の四かい、ひとりずつ、うつくしいむすめに、白い着物をきせてさしだせ。」
やと。あまりのむたいなことに、村人たちは、ことばもでんかったが、神さまがいうのでは、どうにもならん。いわれたとおり、白い着ものを着せたうつくしいむすめを、大きなかごにいれて、まないた橋の上にはこぶことにした。
むすめののったかごを、橋の上におくと、人びとは、あとも見ずににげかえった。すると、なまあたたかい風がふいてきて、かごはむすめをのせたまま、二上山のはるかかなたにとびさってしまうんじゃ。
こうして、まい月四人ずつ、むすめがさらわれるようになって、なん年かがすぎた。
このことは、やがて都のみかどの耳にもはいってな、
「二上山の悪神を退治せよ。」
と、行基という徳のたかい坊さんを、越中の国につかわされた。
行基は、むすめのかわりに、白い着ものを頭からかぶって、かごにのらしゃった。
やがて、夜になった。あたりがしいんとしてくると、なまあたたかい風が、ヒュルヒュルヒュウウとなりだした。
風にのった男神は、術をつかって、たくさんの分身をこしらえ、やみの中に、黒いかたまりとなっておしよせた。
行基はかごからとびだして、大きな声をふりしぼり、いっしんに法華経をとなえた。
ゆいぶつよぶつ
ないのうくうじん
念珠をおしもむ行基の声は、越中の東のすみ、西のおく、南のはて、北の海まで、ろうろうとひびきわたったと。
すると、男神の術はたちまたやぶれ、分身のすがたもきえた。そして、あとには一ぴきのみにくい大蛇が、行基の足もとで、のたうちまわっておったと。
「うう、くるしい。ゆるしてくだされ。もう、もう、わるいことはいたしませぬ。これからは、村の人たちをまもります。」
そこで行基は、二上山のちゅうふくにある悪王寺の社に男神をまつり、これからは、むすめのかわりに、米をそなえることをやくそくしたと。そして、米をあつめるやくめは、二上山のふもとの養老寺にもうしつけた。
それからというもの、まい年秋になると、養老寺の山伏たちが、ジャラン、ジャランと錫杖をふりたてて、町や村をまわり、米をもらってあるくようになった。かたにかついだ大きな麻のふくろが、米をいれるかんまんぶろじゃ。
山伏たちは、家いえののきさきに立って、
「二上山、ふたかみさあん。」
「かんまんぶろ、かんまんぶろ。」
と、われがねのような声をたてる。その声に、子どもはなきやみ、きたばかりのよめさんは、ぶるぶるじゃ。
ますのはかりが、すくなかろうもんなら、
「もっと山にもれ、山にもらんか。」
と、やかましい。
そのころの子どもたちは、わるさをすると、
「二上山ござるぞ。かんまんぶろにいれていかっしゃるぞう。」
と、じいはん、ばあはんに、おどされたもんやぞい。
ながくつづいたこのしきたりも、前田の殿さんがなくなってからは、おとろえたと。
養老寺は、そのご、射水神社という神社になり、いまは、二上山のふもとに、赤い鳥居がたっておる。
二上山の男神は、いまでも力のつよい神さまとして、越中のあっちこっちに、おまつりしてあるんよ。

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