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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(1) - プロローグ

高岡開町400年まつりにはこれを機に「高岡の歴史と文化を振り返り、学び・再発見・再認識する」という目標があります。
しかし、そもそも富山県が社会科の教科書に登場するのは米騒動とイタイイタイ病のみです。高岡市を含め呉西地区なんてかすりさえもしていません。

教科書に載らないからといって呉西・高岡に歴史がないわけではありません。
その理由として学生のころささやかれていたのは、「政治、経済の中心はずっと太平洋側だったから」というのと、「歴史の資料が一向一揆で燃えてなくなったから」という2点でした。

・ 「政治、経済の中心はずっと太平洋側だったから」説
幕府の置かれた鎌倉と江戸は確かに太平洋側にあり、政治的に日本海側が中心となった時代はないようにみえます。しかし、経済的には日本海側が大きな存在感を持っていました。太平洋側より日本海側のほうが先に海上交通が発達し、盛んに交易が行われていたようです。

・「歴史の資料が一向一揆で燃えてなくなったから」説
一向一揆というのは意外と戦争のようなことはあまりやらなかったようです。加賀にしても富樫氏を滅ぼしたわけじゃなく、百姓のもちたる国だった頃も守護はひきつづき富樫氏がやっていたりします。激しく戦ったのは織田信長に攻められたときの、後に大阪城となる石山本願寺や伊勢の長島くらいなのではないでしょうか。そもそも富山県で激しく戦っていたなら瑞泉寺、勝興寺、善徳寺が織田家の武官だった前田利家と仲良く同居する気にならないはずです。浄土真宗には焚書をする習慣も動機もなさそうですし。少なくとも他の地方よりも昔の資料が大幅になくなったとは考えづらいところです。
これは勘ですが、一向一揆と明治維新のときに行われた神仏分離・廃仏毀釈運動が混同して伝わっているのではないかという気がします。富山藩は廃仏毀釈の特に激しかった場所のひとつです(富山藩合寺事件)。富山の廃仏毀釈運動については玉永寺さんのサイトで詳しく紹介されています。お寺が取り壊されたり、経典が焼かれたりしたので、こちらの事件ではきっと歴史的な記録も失われたに違いありません。ただ、これだと藩や商人が持っていた記録は消えません。そもそも歴史上重要な事柄なら京都か江戸にも記録されているはずです。

なので、どちらの説も決定的ではないと思います。

これは仮説ですが、問題は歴史を記述する側にあったのではないでしょうか。歴史は勝者がつくるといわれるとおり、その時々の強者に都合の良い歴史が選択されてきているはずです。

高岡は歴史を記述してきたその時々の権力にとっても、教科書を作っている現代の政府にとっても微妙に気に食わない位置取りをすることが多かったのではないでしょうか。

それも早すぎたり遅すぎたりと間が悪かっただけで、意図的ではないと思います。
少なくとも高岡を中心に国家を転覆させるような反乱が起きたこともないし、明治維新のときの会津藩のように気骨を持って反体制を貫いたわけでもない。

ちょうど2009年8月の衆議院議員選挙で脱官僚を掲げて民主党が政権を奪取しているのに、北海道開発庁出身で自由民主党の新人である橘慶一郎さんを選んでしまうような間の悪さ。
これを歴史上ずーっと繰り返してきたのではないかと思います。これを仮に「タチバナ現象」と名づけておきましょう。

そんなことをしててもなお経済的にはそれなりのプレゼンスを保っている。そんな感じなのが富山県呉西地区と高岡市の歴史なのじゃないかと思います。

続く

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