1. 物部氏が住んでいた
古事記や日本書紀の時代、10代崇神天皇の命を受けて大彦命が北陸道、高志道を平定します。これは大昔過ぎて歴史というよりは神話みたいな時代です。
大和朝廷が畿内から外部に勢力を拡大したとき最初に制圧された地方のひとつといえます。
大彦命は越中の守護として物部氏を残していきました。
時代は過ぎて30代敏達天皇の時代に物部氏は失脚しますが越中には影響はあったのでしょうか。
この頃のことは大和朝廷と藤原氏の都合のいいように記録されているでしょうからなんとも言えないところです。
2. 越中の国守、大伴家持が失脚
天平時代746年-751年、越中の国守として大伴家持が伏木に赴任してきます。これは高岡の人には最も有名な歴史上の出来事となっています。
文学はもちろん政治的にも有能な方だったと思われますが、越中から帰ったあと次々に政争に巻き込まれており、あまりいい晩年を送ったとは思えません。
橘奈良麻呂の変: 関与を疑われ薩摩守に転任
氷上川継の乱: 関与を疑われ追放
藤原種継暗殺事件: 関与を疑われ没後だが官位剥奪。のちに名誉回復
越中と伏木の政治的な立場には多分影響なかったと思いますが、のちの高岡の影の薄さを暗示しているようにも思えます。
この時代、高岡の存在感がどの程度のものだったかを示す資料としては、昨年「越中国射水郡鳴戸開田地図」(759年)が発見されました。これは現在見つかっている中では国内最古の地図だということです。
この地図は当時高岡に東大寺の荘園があったということを示しています。少なくとも穀倉地帯としては重要な土地だったのではないでしょうか。
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