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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(4) - 格好よくすらある

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5. 徳川幕府を仮想敵とした前田家支配

江戸時代の歴史は江戸だけ見ていればOKという感じで、あとは県ごとに自分の県に存在した藩の歴史を大切に教えているという状況でしょう。

この時代の高岡もやっぱり体制側とは逆のポジショニングを行います。
前田家は基本的に幕府を仮想敵と設定していたようで、高岡に幕府の権威の名残を見ることはありません。幕府の目を欺いたり、攻撃に備えたりしていた形跡ばかりが残っています。

  • お城の守りが弱い背後にあった定塚町を、町ごとお城の正面に移す
  • 瑞龍寺の屋根瓦を弾丸の原料として使える鉛にした
  • 一国一城令でつぶした高岡城址の堀を埋めずに活かし続けた
  • 田んぼを狭く見せ、石高をごまかした砺波の散居村

高岡最大の祭礼である御車山まつりも、豊臣秀吉が天皇を聚楽第に迎えたときに使った車を高岡の町人に与えることによって前田家の向こうに幕府ではなく、朝廷の威光を見せて民衆を手なづけていたのでしょう。

こんなことをしていると当然幕府から疑いの目を向けられるのですが、前田家は高岡を開町した2代藩主の利長をスケープゴート扱いして隠居させ、加賀藩を守ることになります。そうして加賀藩は引き続き金沢を中心として栄え、高岡はまた政治の中心から外れることになります。
もっとも、3代藩主の前田利常の庇護の下、商業的には大きな躍進を遂げるので高岡にとって良かったか悪かったかは分からないところではあります。

6. 明治維新時は新政府側ではなかった

明治維新のときも当然、新政府側にはつきません。

天野屋蒲鉾店のホームページ
によると、明治5年、高岡は県庁の設置か米相場の設置かを選べる立場になったとき米相場を選んだのだそうです。
現在から見た結果はちょっと損だったようにも思えますが、「県庁?何それ?食えるの?」って感じが、もうかっこよくすらあります。

続く

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