今週末は高岡開町400年にあたって高岡開町まつりが行われています。
テレビや新聞やパンフレットでお祭りの広報を見ていると、高岡の歴史として前田利長ばかりが取り上げられ、まるで城下町であったかのような説明がされていて、それにはなんだか歪みを感じます。
歴史が教訓を現在に活かすためにあるのだとしたら、過去も城下町ではなく、現在も政治の中心地ではない高岡が、まるで城下町であったかのような歴史観を持っ てしまうのは損失ではないでしょうか。過去の高岡は政治権力が牽引して発展した都市ではなかったし、今後も県庁所在地のように政治権力を活用した発展はありえません。それを待ってしまうとずっと衰退するに任せることになってしまいます。
江戸時代の高岡町人たちが前田家を崇めたのは彼らが前田家に恩を感じていたからにほかなりません。高岡のインフラを整備し、安全を保障してくれたから、加賀藩内で通用するいくらかの専売権をくれたからという理由だったはずです。まあ怒らせると怖いからといった理由もあったでしょう。
じゃあ、現代の我々が過去の有用な遺産について恩を感じるとしたら誰に対して感じるべきかと改めて考えるとき、今回のお祭りのように本当に前田利長にだけスポットをあてていればいいのでしょうか?。
私は現代の我々は利長と同じくらいに過去の高岡の普通の町人の歴史を知るべきだと考えます。
なぜなら、高岡の町は前田利常によって与えられた加賀藩内の利権を超える発展をしており、高岡の普通の町人たちは何かすごいことをやってのけたに違いないからです。
代表的な例は江戸時代の高岡を牽引した産業であり、最も大きな実をつけた綿市場です。高岡商人は前田家から加賀藩内の綿の独占権を与えられただけなのに、結果を見ると日本全体の綿市場を支配してしまっています。そもそも藩内には綿の大産地も大消費地もないにもかかわらずです。
医学もそうです。なぜか高岡では医学が発達します。能登半島の妊婦さんは高岡の方角に向かってお参りをすると安産が約束されるという信仰がかった話まであったそうです。当時最高の医師がなったであろう幕府奥医師に利屋町の佐渡養順堂から出た坪井信良が就任しています。説明の必要すらない高峰譲吉も輩出しました。
他にも鋳物産業を発展させた金屋、北前船の寄港地として栄えた伏木、100万石の2/3を占める砺波平野の米を集積した吉久、それぞれ繁栄を極めています。福岡の菅笠。戸出の灯油。他にも私の知らないのがいろいろあるはずです。
残念なことに、私はこの綿商人たち、医師たち、船乗りたちがどんなすごいマジックを使ったのか知りません。学校じゃ教えてくれなかったし、テレビ、新聞も伝えてはくれません。
最近ようやく高岡市博物館や室屋長兵衛ホームページなどに概要を気づかせてもらったばかりです。
近代民主主義国家をうまく運営できているのは封建社会を経た国ばかりだといいます。封建領主の記憶はきっと国家運営に必要な基礎知識として教えられているのでしょう。
鋳物師たちについては昭和の高岡を牽引した金属産業の人たちが自らのルーツとして小学校や公共施設で喧伝していました。
しかし、それ以外の人たちの歴史が抜け落ちてしまっているのが現状です。少なくとも綿市場は、おそらくは北前船交易も、鋳物産業より大きな足跡を残してきたはずです。
過去に大きな貢献をしたけれど現代において政治力、経済力を失ってしまい伝説になれなかったというところなのでしょう。
そこのところを何とかして、町人の歴史を学び市民で共有できるようになればいいのにと思います。町人の歴史からなら現代に教訓を活かしても槍を振り回すわけじゃないから警察のお世話にならなくて済むはずです。その代わり公正取引委員会に摘発されるかもしれませんけども。
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